アートの島に生まれ変わった、瀬戸内海の孤島

「豊島事件の残したもの」2011.6.11 社説・東京新聞

百万トン近くのごみはすべて島外に運ばれて、最悪の不法投棄事件もようやく一区切り。循環型社会をめざす転換点になったとされる豊島(てしま)は何を残したか。
 瀬戸内海に浮かぶ島の西端、現場に至るさび付いた鉄の扉は開いたままで、通行を遮る人の姿もありません。役目を終えた中間保管・梱包(こんぽう)施設の二階から見渡すと、史上最大と言われた産業廃棄物不法投棄事件の跡は、十四年の歳月をかけて掘り返された大小の穴が連なる異形の荒野、巨大遺跡の発掘現場のようでした=写真。
 九十一万二千トン。六十万トンの見積もりをはるかに超える産廃が専用フェリーで島外へ搬出された。
 しかし、「地下水の浄化だけでも、さらに十年以上はかかると言われています」と、廃棄物対策豊島住民会議役員の石井亨さん(57)は唇をかみしめます。
 悪質な業者によって、一九八三年ごろから違法に島へ持ち込まれた産廃の七割はシュレッダーダスト、自動車の破砕くずでした。
 そのほかに工場の排水処理施設から出たスラッジ(汚泥)や、えたいの知れない液体を詰めたドラム缶などが持ち込まれ、まぜこぜにされてその場で燃やされた。
 染み出した鉛や猛毒のダイオキシンが、真っ黒にうねって瀬戸内海に流れ出し、島民の心と体をさいなんだ。
 産廃処理の許可を与えた地元香川県はどういうわけか、業者の方を守る姿勢を改めず、反対する島民を「住民エゴ」と決め付けた。
 来島した当時の知事が「豊島には緑があるし、海はきれいで空気はうまいが、住民の心は灰色だ」とまで言い切った。
 九〇年、なぜか兵庫県警が業者を突如摘発し、事態は一挙急展開、国の公害調停を経て、香川県は行政の責任と非を認め、二〇〇三年、県による、恐らく世界初という大規模なごみの溶融処理が、三菱マテリアルの製錬所を擁する隣の直島で始まった。
 豊島住民が自ら決めた「全量無害化、再利用」という大方針に基づいて。
 公害調停史上例のない、住民側の完全勝利。「この時代のことは、この時代で片付ける。次の世代に負の遺産を背負わせない−。そう決めて実践したのが、豊島の誇り」と、石井さんは考えます。
 あらためて、聞いてみました。
 「豊島事件が残したものって、何でしょう」
 石井さんは「何事も“自分事”としてとらえる心、でしょうか」と、即座に答えてくれました。
自分自身の言葉で語る
 離島豊島は文字通りの孤島、孤立の島でした。いくら“お願い”を重ねても、県はもちろん、県警も県議会も、行政監察局も一向に動いてくれません。離島の苦境は“ひとごと”でした。
 そこで石井さんたちは、島民との「百カ所座談会」を本土で開催し、香川県民に直接訴える作戦を立てました。
 島内を十の地域に分けて、まずは事前の勉強会。供述調書や鑑定書の原本を取り寄せて読み合わせを進めるうちに、一人一人が事件の本質を理解して、自分自身の言葉でそれを語れるようになったのです。
 「行政の誤りを正すことができるのは、主権者であるあなたです。放っておけば過ちはまた繰り返される。“私”の問題は“あなた”の問題でもあるのです−」
 受け売りではない真実の言葉の力が無関心の強固な鎧(よろい)を打ち砕き、やがて大きなうねりとなって、県や国の行政を動かした。
 計百三十七回の座談会。豊島住民の戦いは、美しい島の自然と暮らしをよみがえらせるだけでなく、その本質は住民自身が依存の殻を打ち破り、自治を打ち立て、自立を取り戻すことにありました。
どうする持続可能性
 今豊島には、産廃が島外へ出るのと入れ替わるようにして、島外の資本と観光客が押し寄せてきています。おしゃれな美術館やギャラリーが島中に点在し、「ごみの島」から「アートの島」へ、生まれ変わろうとしています。
 流れに乗って豊島事件を風化させてもいいものか、島の自立や持続可能性は保てるか−。石井さんは、島内で百カ所座談会を再現し、八百人の島民すべてに会って、尋ねてみたいと思っています。
 豊島の今は、あなたのまちの今でもあるようです。