熱血教師

 イングランドからきた熱血教師のケスがこのところ不調だ。
授業中大声で生徒を怒鳴りつけていたら、喉を痛めたらしくか細い声でしおらしい。本人はマイクを使ったから細菌に感染したと言っている。ケスの声は窓の外までガンガン響くから声を痛めるのも無理はない。
 それに、まだひと月しか経っていないのに、生徒の親から苦情がきたそうだ。出来の悪い生徒をなんかしようと、張り切っていたのが裏目にでたらしい。前のフィリピンの教師もスコットランドの教師も何もしなかったと呆れている。教師はサラリーをもらえばそれでいいということじゃないと言う。生徒に解るように教えるのが仕事だと。ごもっともでござる。そして、生徒をコントロールしようとしていたら、いまじゃ生徒にコントロールされていると嘆く。
 「そう、生真面目にならないで、ケス。勉強したくない生徒が4組に集まっているんだから」と慰める。「なんだか時間を浪費している気分だ」とでかい体を椅子に沈めてナーバスになっている。「いま、体調が悪いからよ。明日になれば、元気になるって!」と励ます。
 生徒たちに語学を学ぶことの大切さがわからないのは当たり前なのだ。いま現在、生きて行くのに必要としていないのだから。関心事はゲームや音楽、スポーツまたは異性であり、授業に身が入らないのは普通なのだ。
 わたしだって時間を浪費している気分になるさ。でも、声をかけているうちにいつもサポッていた生徒が授業に来るようになり、励ましていた4組の生徒が2組にアップしたりして嬉しいこともある。
 教育って、教え育むってことだから時間がかかる。特に語学を話せるようになるまでには努力が必要だ。カナダの語学学校で学んでいたとき、ベトナム人の教師が6歳のときにベトナム戦争が始まり、カナダに移住してきて、英語とフランス語を学ぶのが大変だったと言っていた。まったく理解出来なくて、いつも高いビルの上から落ちるような切羽詰まった気分だったという。
 語学はそんなふうに追い込まれないとしないかも、または自らを追い込むか。そして、やらないことは当然結果もでない。これは自分への戒めかも?