マンダレー

 ヤンゴンで一日観光して、マンダレー行きのナイトバスに乗った。
機内には観光客がたくさんいたのにバスにはそれらしき人たちは誰も乗っていいない。みなさん飛行機で移動しているわけ?
 早朝5時に郊外のバスステーションに到着。タクシー交渉が厄介な上に誰も街はずれのゲストハウスに行きたがらない。荷物がないのでバイクタクシーと交渉が成立し、無事にゲストハウスに辿り着いた。ドライバーのおじさんの息子がガイドをしているということで、8時半に来てもらう。

 老人ご夫婦が営むピーコックゲストハウスは古い邸宅で、どっしりしたチーク材の柱と床、ガラスは歪んでいて年代を感じさせる。薄暗いフロントにゆったりしたソファーと枕が置いてあり、部屋の掃除が済むまでお休みください、と言う。
 横になると、柱時計が時を刻む音が高い天井に吸い込まれていく。こんなシーンをどこかで見たような錯覚に陥りながら寝てしまう。




 さて8時半、息子さんがやって来た。
近郊の3都市、アマラプラ、インワ、サガインとマンダレーの市内観光で18000チャット(22us$)での交渉が成立。
 バイクの後ろに乗ってお寺見学に出かけた。彼は40歳で独身、ガイドはもぐりなのでお寺には入れないそう。時折ノートに英語で書いた説明を見せてくれる。

 マンダレー周辺では、13〜19世紀にかけて何度も都が替わり、その度に新しい都が建設された。アマラプラ、インワ、サガインはもとの都だった遺跡の町でいまでも新しく仏塔が建設されサガインは仏教修行の町になっているそうだ。





 翌日、なんと船の上で札幌の山友だちに遭遇!
「なに、してんの?」
「あなたこそ、なにしてんの?」とわたし。
 そもそも、エーヤワディー川を船で渡るミングォンには行くつもりはなかった。昨日一日お寺を見すぎて「もう、いいわ。お寺」てな気分だった。
 朝、食事に行くと昨日サガインですれ違った男性がいて、声をかけられた。
「今日はどこ?」
「決めてない、あなたは?」
「ミングォン」
「じゃあ、タクシー代をシェアして」と急に気が変わった。そそくさと荷物をまとめて船に乗ったら山友がいた。びっくりしたなぁ!
 にわか旅友はフランス人、ドイツ人、デンマーク人、わたしと山友のヒデキさん。それぞれの一人旅は、急ににぎやかなグループになった。これも一人旅の醍醐味かも。


『「マンダレーへの道」としてのエーヤワディー川の名声は今でも残っており、米や料理用油、穀物、竹、チーク材等の農産物を始めとする物流の大動脈となっている。マンダレーは、北部及び中部ミャンマーの取引及び通信の中心でもある。主要産業には、絹織物、タペストリー、ヒスイの切り出しと研磨、石及び木の彫刻、大理石及び青銅の仏像、寺院の装飾品及び道具一式、黄金及び銀の葉の制作、マッチの製造、醸造及び蒸留がある。』From Web site





2012/1/17
バガン
 マンダレーから夜行バスでバガンへ向う。
席は満席だが、観光シーズンなのに観光客はわたしとスペイン人のカップルのみ。みんな飛行機で移動しているんだね。
 真夜中にバガンに到着。メーカラ・ゲストハウスがピックアップしてくれるという話だったが誰もいない。真っ暗で不安。バイクに乗ってゲストハウスに行ったら、忘れていたとのこと。まったく、もう。





 1日目は馬車で遺跡巡り。
広い平原に茶色の仏塔が立ち並び、それはそれは不思議な風景だ。11~13世紀、バガン王国に建造された仏塔はフビライ・ハーンの侵攻を受けるまで250年間続いた。城壁に囲まれた一部は考古学保護区に指定されている。

 2日目は自転車を借りて小さい仏塔巡りをした。昨日出会った絵描きさんたちに会いに行った。
 昨日、「お昼ごはん、どう?」と言われて、一緒に食べたら、これがとてもおいしい。ステンレスを重ねたお弁当箱に3種類くらいのおかずを持参してみんなで食べている。
「誰が作るの?」と聞くと、お母さんだったり奥さんだったり。兄妹が多くみんな一緒に暮らしているとのこと。その中のドライカレーが美味しかったので、名前を聞いてレストランで食べようとしたら、家庭料理だそうでレストランでは食べられなかった。
「これはレストランで食べられないよ!」とまた、仲間になってランチをごちそうになる。彼らは欧米人に声をかけるのだけど、不思議そうに見ているだけ。

 くうくう、ぞうぞう、みゅうみゅう、の絵描きさんたちは綿の布に砂絵を描いて3〜5ドルで売っている。お弁当を持ってお寺にやって来て、お坊さんにご飯を分けてあげて、観光客のわたしにも分けてくれて、にこにこと幸せそうだ。
 ポストカード売りの少年たちに「学校は?」と聞くと「貧しいから行けない」と一瞬、笑顔が消えた。貧しいからこそ教育は必要だ。一日砂漠の熱射に照らされて、しあわせってなに?と考えさせられた。
 学校に行けない少年と貧しいながらしあわせそうな絵描きさんと......戦後、豊かな国に生まれかわった日本。






バガンヤンゴンからバンコク
 3日間バガンに滞在し、ヤンゴン行きの夜行バスに乗った。朝4時にヤンゴン着。しかし空港は5時にならないと開かない。ゲートの前で待つこと1時間。中国人の女の子と話をしていた。
マンダレーの大学は4ヶ月しか授業がないんだよ、信じられないよ」と教えてくれた。彼女は上海の大学で働いていて、新年の休暇でマンダレーに来たらしい。
「それで、卒業できるの?」とわたし。
「大学は開いているの。でも生徒も先生も誰もいない。それでも卒業できるの。すごく、おかしな国よ」と話していた。

 朝8時半の飛行機に乗り、10時半には喧噪の大都会バンコク着。
空港でフィリピン人の女の子に会う。ベトナムハノイで働いているそうで寒いからタイの南の島に行くそうだ。サイアムでショッピングしたいとのことで一緒にスカイトレーンに乗る。珍しそうになんでも写真に収めている。
 わたしはパソコンショップに寄り、HDを買い使い方を教えてもらう。
蒸し暑い中バスステーションまで歩いて行き、またナイトバスに乗り、翌日に田舎町のカウオンに着いた。
 さすが、2日間続きのナイトバスには体が痛くなった。おまけにあちこち蚊に刺されたのか、虫にやられたのが痛さと痒さでたまらなく不快。1日中綿のように眠っていた。




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