アンナプルナBC 後編

6日目 アンナプルナBCからヒマラヤホテル 9:00am~3:00pm
 朝、朝焼けに染まるアンナプルナを写真に収めていたらセーラがモレーンの稜線を歩いているのに気がついた。嬉しくて大声で叫ぶ。
「思ったより早かったね。MBCを何時に出たの?」と聞いたら、5時とのこと。高山病の心配ないセーラは二人を置いてさっさと登ってきたらしい。わたしを見るなり、
「昨夜、出発時間の交渉でたいへんだったのよ!アナが、そんなヘッドランプを付けて歩けないと言い張って。早く出発しないと朝焼けは見られないでしょう?」
「また、文句なの?」とわたし。
「そう、4時半に出たかったんだけど5時に遅らせたの。朝はまた、がさごそさせてうるさいし、アナとは部屋をシェアできない!」と怒っている。昨夜は部屋がなく三人でキッチンの隅で寝たらしい。まあ、なんとも大変な人だ。
 なにはともあれ、高山病になったコーラスと文句たれのアナも無事にアンナプルナBCに入った。白い8000m峰々にぐるりと囲まれたサンクチァリは素晴らしい、の一言。一緒に記念撮影をし、めでたしめでたし!




 アンナプルナBCを下り、MBCで早めの昼食を取っていたらコーラスの気分が悪くなった。アンナプルナBCは4130mあるので高山病になったコーラスにはキツかったかも。それにBCでのんびりしすぎたかも知れない。
 セーラはコーラスのザックをえいっとかつぎ、お茶もそこそこに「降りよう!」と決断。さすがアラスカン山ガール。わたしはふらつくコーラスにストックを握らせ、三人で逃げるように山を下った。この日はヒマラヤホテルまで一気に下山。

 帰りのヒマヤラホテルはガラガラで欧米人や喧しい中国人や派手な韓国人のクループはいない。スペイン人の若者と数人の韓国人のみで閑散としている。
 今やトレッカーの半分が中国人と韓国人だという。特に中国人は今休暇中らしく、大勢のグループが入っていて日本人のわたしもシェルパガイドに「ニーハオ」と挨拶されるほどだ。
 ホテルについてから雨と風が強くなり竹やぶが大きく揺れている。温かい部屋にいて、外の嵐を見ながらホットなミルクティを飲み、カップで手を温めている幸せをかみしめる。アナはガイドのプラカスと一緒で心配はないが寒いだろうに、と思う。まだ到着していない。
 みんなが集まった夕食時、あしたの行動予定を話し合う。アナは、また文句をたれだした。
「天気が良いといいけど、雨が降ったら歩くのが難しい」と言う。そんなの当りまえだ。「ここは山なんだから、雨も降るし風も吹く、ときには雪になるよ」と言い、なんで山にきたの?と言いかけたらセーラが止めた。かわりに、
「山のダイナミックな自然を楽しみなさいよ。天空から糸のように流れる滝や白い濁流や風の音を。ものすごいエネルギーでしょう?人間なんてとてもちっぽけな存在よ」と言う。
「もちろん、楽しんでいるわよ!」とへのかっぱ。余裕のないことは瞭然としているが負けず嫌い。
 アナが部屋に戻ったので「アナはフランス人だからことごとく理屈を並べるのかな?」とセーラに言った。セーラは先ほど上海でフードビジネスをしているスペイン人と話していたことによると、中国人は自己中心的で自分を中心に世界が回っていると考える人が多いから、彼らとの仕事は大変だよと言っていたと言う。アナはフランス人と中国人を併せ持つから余計大変なのかも、とのことだ。そうかね、くたびれた一日。






7日目 ヒマラヤホテルからチョムロンへ 7:00am~2:37:0pm
 チョムロンのホットシャワーを目指して、渓谷を下り、吊り橋を渡って登り返す。途中、見晴らしの良い村でのんびりと昼食を取り、またもや下って登り返す。
 ガイドのプラカスが「向こうの山にあるのがチョムロンで、2時間半くらいかかります」と言うと、アナが「わたしはそうは思わない。1時間半よ、地図を見たからね」と反論。どう見ても着かないことはあきらかだが、だれも言葉を返さない。彼女は「そうですか」と相づちをうつことがまったくない。
 往きに泊まったホテルは満杯で、その上のホテルに泊まる。早速シャワーを浴びて山を見ながらミルクティでくつろぐ。アナはわたしたちより1時間遅れで到着。
「疲れたでしょう?」と労をねぎらうと「わたしは元気よ!」とのこと。やれやれでございます。





8日目 チョムロンからタダパニへ 7:00am~2:30pm
 大渓谷をトラバースして下り、谷底の吊り橋を渡って対岸の山を登る。アメリカ人の兄妹に再会する。マイクは大きな一眼レフのカメラと望遠レンズを抱え素晴らしい山の写真を撮っている。今日は森の中に住む白いヘヤーで黒い顔をした美しいモンキーの写真を見せてくれた。妹のローラはテレビ局勤務だそうだ。
 同じコースを歩いているがコストはいくらしたのだろう、と参考までに聞いてみる。ポカラでガイドを雇い12日間の行程でガイド親子のコストを入れて700us$だそうだ。チップを各自100US$ずつあげると言っていた。わたしたちは1週間のカトマンズ宿泊費もいれ3週間で850US$だから、断然に格安トレッキングだと思う。けれどもチップはそんなにあげられないかもね。

 セーラが小さな花や落ち葉を拾いスケッチ帳に挟んでいく。きらきらした鉱石の剝離した破片を拾い集めてカメラケースに保管している。アラスカに戻ったらオブジェを製作するそうだ。彼女のアートは自然からのアイデアと鉱物との組み合わせが多い。



9日目 タダパニからゴラパニへ 7:00am~3:30pm
 ゴラパニはネットも繋がり小さな町のようだ。パン屋さんもワインショップもある。
 ヤクチーズとワインを買ってお祝いをすることにした。
夕食前のひととき、ストーブを囲んでカードをしながらワインを飲む。みんな笑顔で至福の時をたのしむ。
 文句たれのアナも幸せそうで、「朝は時間になるまですべてのものに触るな!」と命令したわたしもまた、すべてを忘れて幸せだった。
 夕食後は各国からきたトレッカーの音楽会となり、ネパールの民族音楽レッサンピリリを歌い踊り、アラスカのコーラスは開拓の歌を歌った。フランスの若者はギターを弾き、韓国人はアリランを歌って、それぞれの夜は更けてゆく。
 


10日目 ゴラパニからタトパニへ 7:00am~4:30pm
 朝、プーンヒルからご来光を見る。
沢山のトレッカーがヘッドランプを付けて丘を目指す。丘に立ち見台のやぐらが組んであり興ざめだ。300人くらいは集まっているだろう。みな一様に山をバックに写真を撮っている。
 その後、ミーティングでみんなの意見が一致し、温泉に入るためにタトパニまで足を伸ばすことになった。
 トレッカーが急に少なくなり、ローカルな風景になる。道はゴミだらけで、コーラスは捨てられたペットボトルを拾いながら歩いているが、あまりのゴミの多さに拾いきれない。欧米人のトレッカーがゴミ袋を腰に下げながら下っているのを見かけ感心する。建設中の自動車道を歩くので、暑さと埃で喉が痛くなった。歩きに歩いて夕刻4時半にタトパニに到着した。
 温泉はコンクリートを仕切っただけなので道路からまる見え。バイクの若者たちがたむろして入浴を見学?している。夜になってから入ることにしょう、と夕食後に温泉に入りにゆく。
 お湯のなかで足を伸ばしくつろぐ。蛍がふんわりと闇に遊び、天空には星は瞬く。ロマンチックだが結構熱くて長湯が出来ない。
 ここは最終ポイントで明日は車でポカラへ移動する。





11日目 タトパニからベニ〜ポカラへ 7:00am~6:00pm
 タトパニからベニまでジープで4時間かかる。おんぼろローカルバスが人を満載にして走っていて、ころんと谷底に転がりそうだ。坂になるとバックして勢いをつけないと登れない。
「あんなのは恐いね」と言っていたら、プラカスがジープを調達してきたのでほっとする。それでも谷側の片路がくずれた道が多く、運転手の後ろに座ったわたしは「お願い、もっと左に寄って!」と大渓谷を覗きながらはらはらしていた。この日、ローカルバスが谷底に転落し数十人が亡くなったそうだ。

 ベニからは6時間のローカルバスになる。腹ごしらえをしていよいよ危ないローカルバスの乗客となるが座席が二つしかない。プラカスはわたしとアナにバスの後部の座席を与え、セーラとコーラスはバスの屋根の荷台に乗ることになった。
 バスの中は暑く、窓を開けようにも後ろからガラスを押し閉められ、前からも押されてわたしの席は窓なし状態。前の子連れ母ちゃんと後ろの欧米人の女性とガラス窓空間の陣取り合戦をし、窓に腕を挟んだり桟にボールペンを挟んだりしながら風を確保しいていたが、あきらめてわたしも荷台にのることにした。
 荷台は風があって涼しく快適。だが木の枝や電線に注意が必要だ。また警察のチェックポイントでは屋根から降りてバスの中に入らなければならない。屋根に登ったり、降りたりで結構大変だったが、ネパリーの若者の歌や太鼓で屋根の上は賑やかで楽しかった。
 6時間後に無事にポカラに到着。ゲストハウスに着きシャワーを浴びて、チベッタンレストランで祝杯を上げた。お世話になったポーター親子、シェルとナレンドラも参加してみんなでトンバ(チベットのお酒)を飲んだ。
 いろいろとハプニングが満載ではありましたが、結果オーライのアンナプルナBC国際トレッキング隊でした。