「いのち」日野原重明

 日本語教室を整理していて、2年前の「文藝春秋」「Voice」「WiLL」を見つけた。活字に飢えているので何でも読む。そのなかに日野原重明氏の特別講演の記事があった。
『寿命とは、たとえば百歳までと制限を与えられて、手持ちの時間を削っていくものではない。そうではなく、寿命という大きな壷の器に、自分でつかえる時間を懸命に生きて、その生き生きとしたもので中身を埋めていく、というのが私のいのちのイメージです』
 はたして、わたしの壷は生き生きとしたもので中身が埋まっているだろうか? なんだか、がらくたばかり入っていそうで開けてみるのも恐い。きっと、なんでこんなもんが入っているのかも説明ができないだろう。
 そのときは夢中になり、たしかに生き生きとした時間を過ごしたかもしれないが、過ぎてしまうと「はて、なんでこんなことに夢中になったのか?」と思うことばかり。
 いまも部屋は夢の残骸で溢れている。押し入れは山道具で溢れ、居間は織り機で占領され、考古学の作図をしていた大型の作業机は本の山になっている。
 小さなスペースでパソコンを開き、10年間の夢の清算をすべく本を出版した。これですっきりと整理できるかと思いきや、いまだにだらだらと「山はこころの必需品ね」と山道具はそのままで、機織りは足腰立たなくなったら再開するかもと処分出来ず、仕事もリタイアしたのに大きな机は便利とそのまま居間を占領している。
 ここらへんで、道具の必要としないものに挑戦するのが新鮮かもしれないと身ひとつで、海外で日本語教師を始めたが、これまた教材づくりで、パソコンと紙を相手に奮闘している。ベッドの板を剥がして大型机まで作ってしまった。これじゃ、家にいるのと変わりない。
 なんだか、わたしはいつまでたっても同じところをぐるぐるぐるぐる回っている。